離婚して羽が生えたように楽に感じたものの、それは一瞬で、後はシングルマザーとして忙殺の日々。
でもそれは良いのです。
シングルマザーとしての忙殺の日々は、良いのです。
仕事、子育て、家事、自治会、学校関係、役員、友達、、、お金を数えては不安になり、転職、新しい職場、人間関係、どれも必死でこなしました。
なのに、この虚無感。
空っぽなんです。
どうしても埋められないなにか。
この時期が死ぬほど辛かった。
私は死んでました。
死んでるのに、生きている。
もう終わりにしたいのに、娘はまだ小学生。
死にたい。でも生きなきゃならない。生きて、お金を稼がなきゃならない。家事をしなきゃならない。
幸福感なんて1ミリも感じない。
新しい職場で根掘り葉掘り聞かれ、聞かれたので離婚して子供がいる事を答えたら、「あら、でも子供がいて良かったでしょう」「この子の為に頑張ろうって思えるでしょう」と、言われましたが、全然そんな事思えなかったので、「いいえ」と言いました。
こんなに辛いのに、更に身を粉にして子供にささげよ、と言われているようで吐き気がしました。
涙が出て、辛くて、苦しくて、毎日ビールばかり飲んでました。
心のよりどころだったのに、そのビールですら娘からチクチク文句を言われ、ビールと言っても安い発泡酒なんですけどね、これを飲む私を贅沢してると非難してくるのです。
辛くても仕事に行って、1人で家の事を全部やり、、娘に言っても家事は絶対に手伝ってはくれなかったのです、夏休みの宿題の、お家の手伝いをしましょう、と言うのも頑としてやらなかったな、、、そんな私の唯一の心のよりどころがビールという名の発泡酒だったのに、それにも文句を言われ、、
誰も分かってくれない。
シングルマザーと言っても、「でも、お子さん1人なんでしょ?1人ならいーじゃない、あそこなんて3人もいるからお母さん大変よ!」
とか、家に夫がいないなんて最高ね、と言われたり。
誰も、本当に誰も分かってくれない。
死にたいのに死ねない状況を。
私はずっと助けを求めてました。
それが間違いだと気付かずに。
誰かを求めるのではなく、自分でそこから抜け出さなきゃいけなかったんです。
娘とは中学の終わり頃から衝突するようになりました。
高校生の頃なんてお互いが常にピリピリして、家でリラックスなんて出来なかった。大声を張り上げながらの喧嘩なんてしょっちゅうでした。
具合が悪くても知らん顔。辛い事があっても知らんぷり。私の方がしんどい、私の方が大変、そんな言い合いの毎日。
娘が寮付きの専門学校を選び家を出たら、物凄く楽になりました。
「娘さんがいなくなって寂しいでしょう」
と、色んな人に声をかけられましたが、全くそんな事はなく、天国にいるようでした。娘の存在がストレスだと感じるほど関係は悪化のままでした。
関係が修復したのは何がきっかけだったのか、、前にも書きましたが、娘が喧嘩してる時にこう言ったんです。「お母さんと喧嘩したいワケじゃないのに!!」
それを聞いてから、ムカッとしても、娘は私と喧嘩したいワケじゃないんだ、と一呼吸おいてから、次の言葉を発するように心がけました。
そこから少しずつ少しずつ、お互いを思いやれるようになり、自分も認められるようになってきました。
そう、私は自分を認められなかった。
娘への愛情が分からなかった。こんな親に育てられて娘がかわいそうだと思っていた。
頑張って働いて娘の身の回りの物は揃えたし、家事も頑張った。洗濯して清潔な衣類を、食事も苦手な調理を毎日やったし掃除も片付けもミニマリストになるくらいやった。けれど、どれだけやっても自分はダメだとしか思えなかった。
私の給料ではボロやのような市営住宅にしか住めなかったし、値の張る物は買ってやれない。どんなに頑張ったとしても私が作れる物は駄作ばかりだし、手作りデザートもみすぼらしく見えた。
当時の落ち込みの原因は自分だと今なら分かる。
私が私を認めなかったから。
ただ1人、娘は私を認めてくれていたんだと思う。娘がイラついてたのは、私が私を認めなかったからかも知れない。自分はダメだと思い込んでいる母親にイラついていたのかも。もちろんそれだけじゃないのは分かっている。当時の私の態度は酷かったと自分でも思う。娘も相当酷かったけど、、私は、気持良くお金も払わなかったし、、何だかんだと文句を言ってからじゃないとお金を手放せなかったのです。なけなしのお金だったし不安が大きくて、、、
まぁ、このように酷い落ち込みの中、娘とバトルして、自分も娘も誰の事も認められない狭くて小さな人間だった私が、娘のあの言葉で少しずつ変わっていったのでした。
自分が変われば周りが変わるのは本当の事で、自分を変えずして周りを変える事は出来ないんだなと、実感しました。
あと、娘が何かしでかす度に、私の心構えも変化していきました。
長くなったので、続きます。